2013年7月21日 神の愛の内にある人生 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。             
Ⅰヨハネ4:10,11 
  ヨハネの手紙第一4章7~19節      (2013/07/18ドルカス会礼拝説教 Ⅰテサロニケ3:11-13 「道は開かれる」の要旨)

 「道は開かれる」とは教会の苦難を前提にしてのことです。教会が受ける苦難は、何か突然のことではなく、必然的なものというのが聖書のおしえです。「あなたがたは、世にあっては患難があります…」(ヨハネ16:33)とイエスご自身がおしえ、「私たちがこのような苦難に会うように定められているのです」(Ⅰテサロニケ3:3)とパウロがおしえています。苦難、それは神の祝福と栄光にあずかるものとして、キリストの道を歩く者が当然うけるべきものです。立川教会も例外ではありません。

 さて、その苦難に対する対処ですが、これは教会自身が打開していくのではありません。「どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、」(Ⅰテサロニケ3:11)とあるように、神が道を開くのです。教会に苦難を定められたのが神なのですから、その解決も神です。私たちの力で道を開くこともできないし、開いてもいけないのです。天地万物を創造し、支配しておられる三位一体の神が道を開かれるのです。

 神は、教会に愛を増し加えることによって道を開かれます。「…あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。」(Ⅰテサロニケ3:12)とのパウロの続く祈りで神の解決策がわかります。神はいかなる手段も可能なお方ですが、神は愛ですから、最終的には愛によって解決されます。聖書が教える教会の建て方も「…愛のうちに建てられるのです」(エペソ4:16)とあります。私たちの一番無力のところである愛によって道は開かれ、教会は建てられていくのです。教会には苦難と愛の二つの波紋があります。それが生きた神の教会です。