2014年7月27日 エペソ人への手紙 -祈りなさい-

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
エペソ6:13


講解説教No.45
エペソ6章18-20節

 聖書は「どんなときにも」祈ることを命じています。これは「すべての機会」にという意味です。「いつも油断せずに祈っていなさい」(ルカ21:36)、「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)と同じ意味です。ことあるごとに祈れということではなく、いつも絶え間なく祈れと言いたいのです。「すべての祈りと願いを用いて」とあるのも、「祈り」は賛美も感謝も悔い改めも含まれます。みことばを思い巡らすことでもあれば、それも祈りです。いつでも、どこでも絶え間なくささげる祈りの生活ということができるでしょう。もちろん、特定の場所と時間を定めて祈ることもそうです。すべての機会に祈るならばサタンとの戦いに勝つことができるのです。

 第二に絶えず目をさましていることが必要です。忍耐が必要なのですが、自分にはどうしても甘くなるものです。そこで聖書が命じていることは、目をさまして祈るために、すべての聖徒のためにとりなしをすることです。兄弟姉妹の名を挙げて、彼らのために祈るのです。パウロは「私のためにも祈ってください」ととりなしの祈りを必要としました。たとえ自分自身が祈ることを怠っていたとしても、必ず誰かに祈られています。なぜなら、絶え間なく祈ることがすべての聖徒たちに命じられているからです。イエスの弟子たちもそうでしたが、私たちも祈ることができずにすぐに眠りに陥ってしまうものです。その最大の理由は、祈りがかなえられていないからではないでしょうか?祈りの根本が間違っていないか聖書から確認すべきです。祈る動機がどうかということです(ヤコブ4:2)。エルサレム教会に迫害が起こり、教会の指導者が捕らえられた時に、彼らが祈ったことは「危険からお守りください」ではなく、「みことばを大胆に語らせてください」でした(使徒4:29)福音宣教のための祈りです。私たちのすべての祈りが福音宣教のためのものであれば、必ず神に聞き届けられます。