2015年1月18日 ルカの福音書 -わたしの心だ。きよくなれ。-

さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」
ルカ5:12


講解説教No.18
ルカ5章12-16節

 「ツァラアト」この病は、ユダヤの法律ではきよくない者とされ(民数記5:1-)、宗教的に汚れた者とみなされました。医学的には感染の危険性が言われ、隔離されました。また聖書の誤ったとらえ方から、神に罪を犯した罰という偏見的な風潮がありました。この人の置かれた立場は、自ら望まずに負わされ、家族からも引き離され、社会的な立場を失いました。聖書はこのような立場の人こそ、天の御国が用意されていると教えるのです。聖書はこの立場を、弱く小さく、重要視されず、助けを必要とする「子ども」にたとえて教えています(マタイ18:3,4)。ます。一方世の中の人が求める大人としての立場は、年功序列、政治的手腕、経済資本、力、軍事力であり、これらを優先します。もし、ツァラアトに犯されたこの人がこれらの世の中の大人としての立場をもう一度取り戻したいと願うなら、今置かれている状態をどれほど嫌悪したことでしょうし、不満を言ったら言い尽くせなかったことでしょう。素直に直りたいという願いも持とうとはしなかったかもしれません。しかし、神の前に置かれた弱く、小さい人間の立場を認めて受け入れる人にこそ、天の御国は用意されています。彼はイエスに「お心一つで」つまり、「主よ、あなたが望まれるのでしたら、私はきよくしていただけます」と確信をもって断言しました。その根拠は自らにはなく、イエスのうちにあります。「どうか助けてください」と願わず、絶対的な権威をイエスに見、頼り切った祈りです。イエスはその彼の願いに対応され、「わたしの心だ」つまり、「わたしは望む!きよくなれ」と言って即座にいやされたのでした。このイエスの救い、御国は誰に用意されているのか?神の前に罪を認め、ただ助けを求める心の貧しい者にこそ用意されています。