2015年5月17日 ルカの福音書 -イエスにつまずかない者は幸い-

そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者に福音が宣べ伝えられている。
ルカ7:22

講解説教No.30
ルカ7章18-23節

 「イエスは私を助けてくれるのだろうか?信じていても無駄なのではないだろうか?」イエスにつまずくとはこういうことで、イエスの先駆者であり預言者であったバプテスマのヨハネがイエスにつまずく恐れがありました。獄中に1年近くも入れられていて、助けてくれないからなのか?多くの人たちがイエスを受入れないで拒否し続けている中にあって、なぜイエスはそういう人たちをおさばきにならないのか?とつまずいていたのかもしれません。彼はイエスのさばき主としての姿を強くイメージしていたようです(ルカ3:17、イザヤ61:1)。確かにイエスは裁き主です。それは再臨のときであって、初臨における姿はしもべであり、十字架に従う贖い主の姿です。イエスの律法違反(イエスが律法の制定者だ)、さばくべき罪人たちと食事をする…ヨハネの抱くイエスのイメージとイエスの実像が一致しなくなって来たのです。イエスはヨハネに「私こそ救い主だ」と言わず、見聞きしているイエスのわざが聖書の預言どおりであることを確信させたかったのです。聖書があらかじめ語っていたことと、今行っているイエスの働きとわざをヨハネ自身に結びつけさせたかったわけです。聖書のことばをしっかりベースにして、イエスのことを考える作業がほしいのです。「みことばに書かれているとおりだ」と自らが、イエスが御子であると確信するプロセスが大事です。自分の期待でイエスのイメージをつくっても、正確ではありません。まず聖書にあるイエスを理解してから、そこからイエスを見たいのです。そうすれば決してイエスにつまずくことがなく、問題の中にあっても平安を保つことが出来ます。