2015年8月30日 ルカの福音書 -自分の十字架を負いなさい-

イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
ルカ9:23


講解説教No.44
ルカ9章22-27節

「十字架」…今でも自分に課せられた苦難にたとえて、「その十字架を背負って生きなければならない」というふうに使われる言葉です。この時、イエスの弟子たちが聞いた「十字架」という言葉の響きはそれとは違っていました。彼らは実際に十字架を担がされた犯罪者を見ていましたから。彼らにとって無惨な死が十字架という言葉の内容でした。そんな言葉をイエスはこの時初めてお使いになりました。「わたしについて来たいと思うなら、自分の十字架を負い」この重く厳しい命令を投げかけることで、イエスの弟子としての覚悟を抱かせることが目的です。イエスを信じて救われた者は皆弟子ですが、私たちにこの覚悟がありますか?
まず「自分を捨て」なければいけません。自分の存在、考えを持つなということではなく、自己中心な自分、利得や誇りを求める自分を捨てよということです。「それは自分にとって損か得か?」という発想をやめることです。イエスは神のあり方をお捨てになられ、ご自分を無にして、十字架の死に至るまで従われました(ピリピ2:6,7)。このイエスについて行き、このイエスを宣べ伝えるのです。「日々」自分の十字架を負うとは、毎日その決断、覚悟を更新するということです。そうしないで、そのまま放っておくと「損だ、得だ、主よ、私の生活どうしてくださいます?」という所へすぐ逆戻りしてしまうからです。自分を捨てることはやはり損…自分の利益を守りたいという欲求が出てきてしまったら―それはイエスとイエスのことばを恥と思うこと―イエスが地上に再び来られることを思い出しましょう。その時、自分の十字架を負った人の真の報いがあります。弟子たちはこのときイエスから、十字架の死、よみがえり(22節)、地上に再び来られる再臨(26節)と、聖書をトータルに聞きました。再臨はこれからのことだからと言って関心を向けないと、「今」のためだけに夢中になり「損得」の考えに陥りやすくなります。気をつけましょう。
十字架を負う生き方を毎日確認しましょう。「損か、得か」の考えを今日も捨てられるか?「損でも不名誉でも、イエスさまさえ頂くことができれば問題ない!」と学校や職場、家庭で考えることが出来るか?「イエスさまから受けたものを大事にしたい」と思えるか?