2015年9月13日 ルカの福音書 -心の鈍感さ ~しっかりと耳に入れておきなさい~ -

「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」
ルカ9:44


講解説教No.46
ルカ9章37-45節

 イエスの力と権威を授けられているにもかかわらず(9:1)、悪霊を追い出すことが出来なかった弟子たちに対して、イエスは「不信仰」と言って嘆かれました(9:41)。マタイ17:20によると、「なぜ…追い出せなかったのですか」とイエスに尋ねる弟子たちがいます。「できるはずなのに?」と出来なかったことを驚いている様子です。彼らは授けられた権威を誤解していました。このあと、イエスが汚れた霊を追い出したのを見て、みな「神のご威光に驚嘆」します。パンを増やす奇蹟のときに人々が「世に来られるはずの預言者だ」とイエスを讃えた状況とよく似ています。その時イエスをむりやり政治的な王に仕立て上げようとしたのと同じように、弟子たちはイエスにこの世の力と権威を見ていました。神のキリストと告白しつつも「自分たちに利益をもたらしてくれる特別な対象」として見ていました。そのような弟子たちに、イエスは「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます」と(44)。悪霊を追い出されたイエスは、ご自分の力に決しておごり高ぶることなく、仕えられるためではない、仕えるために来られた救い主として、謙虚に主張されました。弟子たちがどうしても受難のイエスキリストを理解することができなかったのは、自分たちの願望があまりにも強すぎたためです。だから、その自分に反するどんな考えも受け入れることができなくなっているのです。ここに心の鈍さがあります。「このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていた」(45)とは、彼ら自身がかたくなに信じることを拒んでいたことの強調的な表現です。逆に言うと、弟子たちはこの世的な力と権威を堅く信じていたのです。人は信じた通りに考え、信じたとおりに行動します。そんな不信仰な者がまず取り組むことは、「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい」ということです。理解できなくても、得と思えなくても、しっかりとみことばを耳に入れるのです。不信仰な鈍感な心は自覚が難しいものです。それをご承知の主は、愛と忍耐をもって私たちを教え続けてくださいます。