2015年11月8日 ルカの福音書 神を愛せよ、隣人を愛せよ

彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
ルカ10:28


講解説教No.52
ルカ10章25-37節

 イエスの有名なたとえの中の一つ「良きサマリヤ人」が語られているところです。きょうはこのたとえを話されたきっかけとその意図をしっかり汲み取ります。それを考える中心的なことばが「実行しなさい」(28節)、「幼子たち」(21節)です。たとえ話のきっかけは律法学者の質問からです。「何をしたら永遠のいのちを得ることが出来ますか(救われるか、或いは天国に行けるか)」(25節)イエスをためして質問している彼の心に謙遜さはありません。イエスの逆に受けた質問に即座に答えている所を見ると、すでに彼は質問の答えを持っています。彼は、律法を守るなら永遠のいのちを得られると知ったうえで質問し、自分の正しさを誇示したいのです。律法とは旧約聖書のことで、律法の教えを要約すると「神を愛せよ、隣人を愛せよ」となります。イエスも認めているところでマルコ12:29,30で語っておられます。神が人間に要求している生き方の水準がこれです。イエスはそれを実行すればいのちを得るといわれました。しかし聖書はそれを否定しています。律法によっては人は決して義と認められないと(ローマ3:20)。イエスが間違っていないとしたら、その意図はなんでしょうか?それは律法を行うことができると思っている相手の誤りを認めさせようとしているのです。私の隣人は誰かと尋ねられたイエスの答えも同じ意図を持っています。たとえ話の中で怪我をしたユダヤ人の隣人となったのは二人の同じユダヤ人ではなく、犬猿の中であったサマリヤ人でした。ユダヤ人にとっての隣人は同じユダヤ人です。サマリヤ人はランク外の最下位です。イエスはそのたとえの隣人愛と同じように、「あなたも行って同じようにしなさい」と命じました。その人を愛すのは不可能です。実は律法の役割は人を救うのではなく、罪を意識させるものです(ヘブル10:1-4)。もしキリストによって罪を意識することができたなら、キリストの救いの絶対的な必要性を覚えるでしょう。「自分には何の正しさもなく罪しか行うことのできない絶望的な者です。神にすがるほかありません。どうかこんな者をお救いください」と。律法を守ることのできる完全な人はひとりもいません。つまりあなたにもイエスの救いが必然なのです。