2016年4月10日 ルカの福音書 ー心配する事を止めなさいー

それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。
ルカ12:22


講解説教No.70
ルカ12章22-30節

 自分の命とからだに関する心配ごとにはどんな事がありますか?当時の人たちは「食べる、着る」でした。そんな心配の真っ最中の人たちに、イエスは「今(心配を)やめなさい」と禁止令を出されました。心配しなくても良い根拠となるものがなければ言えないことです。心配してはいけないのは、「いのちは食べ物よりもたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです」(23)。もし神がいのちのように大切なものを私たちに与えてくださったのであれば、そのいのちに必要なものを必ず備えてくださるということです。『いのちは誰のものか?』の問いに、ちゃんと答えを持っていなければなりません。聖書は、いのちは神のものと言う前提で話しています。いのちをくださった神が養ってくださることがわかるように身近な例を示しました。今そこに飛んでいる鳥は種まきも刈り入れもしない。そんな一羽も神は養っておられる。また、ここに咲いている野ゆりも紡ぎも織りもしない。明日には刈り取られてしまうそんな花さえ、神は美しく装ってくださる。それらよりはるかにすぐれた人間を神は必ず養い、装ってくださると、その真理をよく考え悟りなさいと教えています。考えるべきは私たちが優れていることではなく、神が私たちを養っておられる事実です。心配事を中止せよとの命令は、養うお方を信頼しなさいという命令であることがわかってきます。心配が絶えない人たちを「信仰の薄い人たち」(28)と言われました。信頼すると口で言いながら、実際の生活では、仕事のこと、人間関係のことなど信頼していない状態があるのです。イエスは日常生活のことであれやこれや捜し求め、気をもむことは神を信じていない異邦人が切に求めていることだと指摘されました。信じていないのだから、当然のことながら自分の命とからだを自分が養わないといけません。しかしイエスは、「あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます」と言われました(30)。親は子の本当の必要を知っています。そういう人格的な信頼関係に着目すべき言葉です。さて、私を本当に養うのは誰なのか?自分自身か、神なのか?そして、これからも心配し続けていくのか、それとも、もう心配を止めるのか?