2016年8月21日 ルカの福音書 -人に尊ばれる者、神に尊ばれる者-

イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。
ルカ16:15



講解説教No.85
ルカ16章14-18節

 「神にも仕え、また富にも仕えるということはできない」(13)とのイエスの話に対してパリサイ人たちはあざ笑いました。彼らは神に仕えつつ富をも得ることができると思っていたからです。イエスの結論は二者択一を語ってはいません。富は神から預けられた人生の元手であってむしろ使うべきなのです。ただその使い方を、預かっているものが神のものであるのを忘れて自分のものであるかのように使うなら、富を不正とするのであって、富の奴隷となります。神と富とに兼ね仕えることはできないとはそういう意味です。「どちらか選べ」と迫られているように聞こえるのは、逆に富に執着していることの証拠です。彼らは富を使ってはいません。使わされているのであって支配されています。無意識のうちでしょうが、彼らにとって富は生きる手段ではなく目的となっています。イエスは彼らを「人の前で自分を正しいとする者」と言いましたが(15)、それは正しさの見返りを求めているからです。「これだけ頑張って神の戒めを守っているのだから、神の祝福としての富が与えられるはずだ」と信じているのです。「律法と預言者」(16)とは旧約聖書のことで、それはヨハネまでで終わりで、今や福音が告げ知らされる時代が始まっているとイエスは言われました。そして律法を堅く守っているユダヤ人だけではなく、だれもが御国に突入するかのごとく入ることができるようになっていると言われました。イエスが伝えたいことは、「自分は正しいと見せて、その正しさの報いとして祝福を得ようとする姿はもはや古い考えだ」ということです。とは言っても、神の定められた律法の真意は決して終わっていないということを、律法の「結婚」を例に説明されました。彼らは律法から離婚してもよいとします(マタイ5:31)。しかしイエスは、「神が結び合わせた二人は、二人ではなくもはや一人である」との奥義から離婚の想定はゼロです。ただ人間の結婚の扱いがひどいために、関係が保てなくなってしまう場合のみ適用されたのです。私たちは字面を守ろうとしているのではありません。それはただ自分を正しく見せているだけです。終末の混乱した時代にいる者だからこそ、福音に生きる者として、真の律法の精神を汲み取り、示して行かなければなりません。