2016年10月2日 ルカの福音書 ー自分のいのちを保つ者、失う者ー

「自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。」
ルカ17:33


講解説教No.90
ルカ17章22-37節

 パリサイ人から(20,21)弟子たちに転じて、『神の国の完成までこの現実をいかにして生きるか?』という教えがきょうのテキストです。第一(22-24)に惑わされないように。再臨のイエス(神の国完成の時)は「こちらだ」「あちらだ」と惑わしの声が聞こえてきます。しかしイエスの再臨は天にひらめく稲妻のように、誰の目にはっきりとわかるものだと教えます。終末の厳しい困難の時には惑わされやすいので、しっかりイエスの教えを見つめていましょう。第二(25)にイエスが再びおいでになることを見るよりも前に、弟子たちは十字架のイエスを見なければなりません。それは神の国の中に弟子として、自分を捨て、自分の十字架を負って生きることです。終末に向かうほど人々の生活は自分本位さを極めて行きます。クリスチャンと言われる人たちも困難に動揺してその愛は冷えて行くのです。その中で他者を愛して生きる人は少数です。それゆえ嫌われます。それが十字架を負って生きる弟子の道です。第三(26-32)に主のみこころのうちに全ての営みをすることです。多くの人はノアの時代の人たちのように、自分たちだけで生きているかのように、計画やすべての行動に神を度外視して生活しています。しかし私たちは趣味や楽しみを持ちつつも、たとえ神がそれらをお取りになったとしても、すべては主のものとして主を喜ぶのです。主のみこころのうちにとはそのことです。最終的にイエスは、自分のいのちを失う者なのか?保つ者なのか?を問われます。勉強すること、仕事をすること…といった営みに、神なしで自分で自分を生かそうとする人はいのちを失います。逆にそういう神なしの営みの中には自分を本当に生かすものはないと自覚している人は、世との大きな違いゆえに困難を受けます。しかし既に世に勝利している十字架と復活のイエスによって、肉体の死を超えた永遠のいのちを神の国の完成とともに保つことになります。改めてみこころのうちを歩み直し、ノアのように救いの箱舟に乗り込むよう人々を招きましょう。