2016年10月30日 ルカの福音書-幼子のように-

まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
ルカ18:17


講解説教No.94
ルカ18章15-17節

 イエスのたとえ話が続いていましたが、ここに来て実際の出来事から、ここのところ続いているテーマである「神の国」について教えておられます。祝福して頂こうと親が子どもたちを連れて来ました。ところが、うるさくてイエスのお話が阻まれるからなのか、弟子たちが叱りました。この時イエスは「子どもたちをわたしのところに来させなさい(来ることを赦しなさい)」と言われました(16)。そのことから最終的にイエスが「こういう人でないと神の国に入れません」と言われたので、「神の救いに預かることができるのはどういう人か?」ということをここで教えておられます。呼び寄せた子どもたちを前に、「神の国はこのような者たちのものです」と言われたことから、幼子のようなものが神の国に入ることが出来ます。素直で純真で、大人のような汚れを知らないものが一般的な幼子のイメージですが、聖書から本質を見ていくならば、それは勝手なイメージです。アダムの罪以来、人間は子どものときから神に逆らい自己中心的です。聖書を良く見てください。幼子とは純真無垢な者ではなくて、神の国を受け入れる者です。神の国を受け入れるとは、イエスによって既に実現している神の支配と救いのわざを信じて受け入れることです。神の国は目に見えません。見えるものはむしろ、痛みや苦しみというサタンの支配です。そういう現実の中でイエスの十字架と復活により救いのわざが既に行われているという福音を受け入れることが、神の国を受け入れることです。大人はそこでいろいろと理屈を言って、納得できる説明を求めます。子どもは神の支配の証拠、十字架、復活の証拠など求めません。子どもは親が言うのだから間違いないと素朴な信頼に生きています。そのように素朴な信頼をもって福音を受け入れる者が神の国の恵みに預かることができるのです。きょうのキーワードは「幼子」です。ある程度親の話を聞くことのできる「子ども」ではなく、お腹がすけば泣き、与えられたミルクを飲むような存在が幼子です。これが示すことは、ただ神の恵みによってのみ神の国が与えられるということです。神のみ前でミルクを求めて泣く赤ちゃんのように、神の恵みをただ求め、あわれみによってそれが与えられるのです。前節の「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈った取税人も自分から何もすることができない幼子です。ただ神のあわれみを受けるほかない幼子なのです。