2017年11月26日 ペテロの手紙第一 -神を恐れかしこんで-

また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。
Ⅰペテロ1:17


講解説教No.6
Ⅰペテロ1章17~21節

 前回、「聖なるものとされなさい」(15)との勧めがありました。聖とされることは心を引き締めること、身を慎むこと(13)、また欲望に従わず、従順な子どもとなることでした(14)。神が私たちを聖なるものとすることは、聖ではないものと区別をされたということです。神があちらとこちらとを分け隔てることを「さばく」と言います。神の好みでさばいたのではなく公平にさばかれました。その「さばく方をあなたがたは父と呼んでいるのなら」とペテロは言います。言いたいのは「あなたがたが神の子どもであるのなら…地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい」ということです。クリスチャンの本国はこの地上にはありません。私たちは天の故郷を離れて異国に住んでいるのです。そうであれば、地上が永住地であるかのように腰を落ち着けるべきではありません。聖書はクリスチャンたちに天に国籍を置く神の子どもとしての自覚を促しています。そうであれば我が家(天国)を心待ちにして、地上で落ち着く生活を望むことなく、聖なるものとされた生活に励むことができます。「父祖伝来のむなしい生き方」とありますが、それは銀や金のような朽ちる物に頼る生き方です。神の子どもとしての自覚があるなら、そのような生活を必要としないのです。その生活に戻るべきではありません。なぜなら、そこから贖い出されたからです。何かの身代わりに殺されることが贖うことです。いのちの身代わりなので物や代用では駄目なのです。生身のイエスキリストが身代わりとなって初めて贖うことが出来ます。10億でも100億でも足りない膨大な身代金が支払われたのです。それを支払うことは神にとっても簡単なことではありません。ひとり子の神が肉体をとって身代金としたからです。「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血」がそれです。神のこの犠牲の大きさから自分の罪の重大さを判断しようではありませんか。そのことが神を恐れかしこむ生活へと直結します。