2017年11月5日 ペテロの手紙第一 -しばらくの間の試練の中で-

そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、
                 Ⅰペテロ1:6


講解説教No.3
Ⅰペテロ1章6、7節

 クリスチャンが抱く喜びは、悲しいことが過ぎ去ってから抱く喜びではありません。悲しみのただ中で抱く喜びです。悲しみや苦しみがないことが喜びだという常識の枠を一度はずして聖書の語ることを聞いてください。聖書は「そういうわけで…(悲しみの中ですが)大いに喜んでいます」と言います。イエスと同じ復活体を頂く生ける望みがある(3)から悲しみの中でも喜び、朽ちることのない永遠の資産を神から頂くので(4)悲しくても喜ぶことができるのです。人の心の持ちようではありません。罪と死に勝った完全な復活体と永遠の資産から抱くことの出来る喜びなのです。それ以外の望みがあっても成り立ちません。
クリスチャンが抱く悲しみ、苦しみは有益なものです(無益な苦しみもあります。)それは信仰が本物かどうかを試すものとして有益です。ペテロは信仰を「金」と比較しています。金は腐敗しない物質の一つですが、実際は度重なる使用や圧力によって朽ちて行きます。しかし真の信仰は腐敗しません。今後も苦しみの伴う試練を経験するでしょう。でもそれらは私たちを打ち砕くものではありません。むしろ私たちの信仰を養い成長させるものです。罪の性質を帯びている私たちは信仰にどうしても不純物が混ざってしまいます。その信仰を純粋に保つには火(試練)を通して精錬することが必要となります。信仰の純粋さは試練を通してのみ証明されます。私たちの情勢が好ましいとき、クリスチャンであることは容易でしょう。しかし社会でみ言葉に従って歩もうとすると必ず波風が立ちます。そのとき気まぐれな信仰を持つ人は次第に主のもとから去って行くでしょう。本物の信仰はキリストが現れて直接お目にかかる時「称賛と光栄と栄誉」、つまりキリストから褒められるのです。これ以上の喜びはありません。