2018年2月11日 宣教月間 -全世界に福音を(1)-

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。 
マルコ16:15


マタイ28章16~20節

宣教とは死人の中からよみがえられたイエス(の福音)を宣べ伝えることです。復活はイエスがまことの神であることの証明です。ですから弟子たちはイエスを礼拝しました。しかし弟子の中にはイエスの復活について疑う者もいました(17)。信仰を捨てたわけではないですが半信半疑になり、信仰と不信仰とを行ったり来たりすることは私たちも日常です。驚くべきことは、そのような小さな信仰者に対してイエスは極めて重要な宣教命令を発しておられるということです。しかもイエス自らが彼らに「近づいて来て」(18)。本来は権威者のもとに下々の者が近づいてひざまづくのが普通です。このイエスの姿は身の低さの現れです。十字架の死により最も低くなられ、復活によりだれよりも高くなられたイエスにしかできない謙遜の姿です。だからこそ私たちは宣教命令を聞き入れることが出来るのではないでしょうか。弟子たちがガリラヤに行った(16)のはイエスに会いたいからでした(10)。小さな信仰であっても生きた信仰はイエスを求めます。そしてイエスを求める者に、神はご自分を現わしてくださいます(Ⅰ歴代誌28:9)。このことがイエスが私たちに宣教を託された理由ではないでしょうか。宣教は私が何かをすることではありません。神への素直な応答が宣教に直結します。宣教において重要なのは私が何かをすることではありません。宣教において重要なのは神ご自身です。まことの神であられるイエスには権威が与えられています。権威とは望み通りに物事を決定し、管理、遂行できることです。まことの神だけが救いのご計画を思いのままに実現できるのです。私たちはこの方の権威によって宣教を命じられ、遣わされるのです。宣教とは、弟子とすることです。その手段として「行って」伝道し、弟子となったら「バプテスマを授け」(19)、また「(イエスの教えを)守るように、教える」ことです(20)。これが地上の教会がすべき仕事のすべてです。これに徹しましょう。