2018年4月8日 ペテロの手紙第一 -善を行って苦しみを受ける-

もし、神のみこころなら、善を行って苦しみを受けるのが、悪を行って苦しみを受けるよりよいのです。キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです…。
Ⅰペテロ3:17、18


Ⅰペテロ3章17~22節

 クリスチャンが行う善は、さばきを免れない人たちに真の救いを提供する最高の善です。そうであるにもかかわらず、人々は救いの手を受け入れようとしないばかりか、クリスチャンを冷ややかに見るのです。ペテロは読者を励ますために、キリストの受けられた苦しみを話します。キリストにとって苦しむことが栄光への道であったことを私たちに思い起こさせています。また、キリストは「その霊において」すなわち聖霊によって、今では捕らわれの霊たちのところに行って、ノアをとおして、みことばを宣べられました(19,20)。ノアの時代救われたのは、わずか八人の人々であり、信じることなく従わなかった人々は数知れず。さて、この手紙の読者の中には「自分たちの信仰が正しいのなら、なぜ自分たちが苦しまなければならないのか?なぜクリスチャンがこんなにも少ないのか?」と思っていたクリスチャンたちがいたのでしょう。そういう人はこの手紙を良く読みましょう。キリストは罪がないのに死に至らしめられるまで義のために苦しまれました。しかし神はキリストを死者の中からよみがえらせ、天で栄光をお受けになったのです(22)。栄光に至る道筋には苦しみという深い谷があるのです。忠実なノアは神が洪水によってこの世界を滅ぼすことを120年に渡って警告し続けて来ました。しかし神はソアと家族を洪水から救うことによって、ずっとノアになされてきた不当な扱いが間違いであることを証明されたのです。大多数の人たちは正しくなかったのであり、信じる者たちはきわめて少数派だったのです。それゆえに救われた者たちが少ないことを理由に、私たちの信仰が弱まるようなことがあってはならないのです。少数であることを不本意だと言ってはならないのです。イエスは善を行って十字架の死に至る苦しみを受けられました。しかし父なる神はイエスを死者の中からよみがえらせました。そして天で右の座、すなわち神の座に着かせ栄光を授けられました。神の目的では、真の栄光のために、栄光の前に苦しみが先立つようにされているのです。私たちもイエスと一緒に苦難をともにし、キリストとともに栄光も受けるのです。