2018年5月20日 ペテロの手紙第一 -試練の受け止め方-

むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。         Ⅰペテロ4:13

講解説教No.24
Ⅰペテロ4章12~19節

 ここにはクリスチャンが主の御名のために被る苦しみに関して、勧めと説明がされています。ペテロはクリスチャンに起こる試練を「普通に経験すること」と見なすように教えています。それを驚き怪しむよりもむしろ喜んでいなさいと。なぜならキリストの苦しみにあずかれるからです。「キリストの苦しみ」とは、イエスが受けられた十字架の苦しみのことです。私たちはイエスの贖いの苦しみにあずかることは出来ませんが、イエスが人として地上で耐え忍ばれた同じ種類の苦しみにあずかることができます(主が受けられた拒絶や非難)。キリストの苦しみにあずかるとは、キリストと同じ苦しみを分かち合うことです。これは祝福です。なぜならキリストを深く知るようになるからです。キリストと同じ苦しみを分かち合うことは再臨のキリストを分かち合うことです。キリストの苦しみがもたらすものは復活と栄光です。イエスが再びおいでになるとき、私たちは喜び踊る者となるのです。苦難におけるもう一つの祝福は神の御霊がその人の上にとどまってくださるというものです。御霊がとどまることは、その人に神のみわざが働くことで明らかになります。その人を通して誰かがキリストに導かれることは大きなみわざです。御霊は、この地上でクリスチャンを神の民として輝かせてくださいます。横暴な主人にも喜んで従い、欲のためにではなく、主のみこころのために過ごす生き方はキラキラ輝きます。このとき御霊が特別とどまります。自らのために働く人の上には御霊はとどまりません。私たちは意味のない苦しみを受けることは決してありません。楽しみであろうと苦しみであろうとそれを与えるのは神です。私たちを愛する神にみこころの中を生きているからです。そうであると、どうしてかわかりませんが、どんなに苦しくてもみこころに従う意欲というものが自分の中から消えることはないのです。喜びです。