2024年4月21日 説教テーマ「罪を赦すこと」

イエスは彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。 マルコ2章5節 マルコ福音書2章1-12節 №11  当時のユダヤの一般家屋の屋根は比較的剝がしやすい構造です。だからと言って、四人の人の屋根をはがして病人をつり降ろす行為は非常識です。中風(からだの麻痺)の人が危篤状態であったわけではないのに、なぜ彼らはイエスのもとに病人を運ぶことを急いだのでしょ うか?それは、イエスが宣言された教えに緊急性を覚えたところにあります。「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)神の国とその支配が完成しつつある時が迫っているから、悔い改めて福音を信じなければならないとの教えに、彼らは待ったなしと自覚したのでした。まだ粗削りの信仰で、どこまでイエスの教えを理解していたかはわかりません。しかし彼らの今の信仰の位置であっても、イエスのことばを疑わず、単純に信じた彼らに、イエスは信仰を見たのです。そして、イエスはその病人に「あなたは癒された」とは言わず、「あなたの罪は赦された」と宣言されたのです。これは的を射ていないのではなく、むしろ先の宣言(1:15)と一致することばなのです。イエスが人々に求めていることは罪を悔い改めて福音を信じることです。行為としての諸々の罪もそうですが、神から離れた根本的な罪を悔い改める必要があります。その罪は神とかかわりがない状態とも言えます。それは人にとって死を意味します。その死を含む人の苦しみ、悲しみの根本は罪にあります。この罪が解決されるために、イエスは「悔い改めよ」とみことばを教えておられたのです。「反省」は一人でできます。しかし「悔い改め」は神とのかかわりの中にあるものですから、決して一人ではできません。かかわりの回復は神によってのみ与えられるものです。それは神が罪を赦してくださって初めて得られるものです。「あなたの罪は赦されました」の一言によって、 神とのかかわりが生まれます。罪を赦すことよりも、病を癒すことのほうが難しいと考える律法学者たちは、自分たちの正しさを主張したいためにイエスを批判し、その教えを軽んじているのです。そんな批判者たちに対してイエスは、中風の人を癒された目的を明確に示されまし た。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」ことです。人に罪を赦すことはできません。十字架の死に裏付けされているイエスだけが人の罪を赦すことができるのです。もしこの方を信じるなら、本心から「赦された」と実感できるでしょう。

2024年4月21日 週報より報告

【報告】 ☆4月14日(日)祝福式が行われました。 ☆4月16日(火)いずみひろばが行われました。初参加の親子が与えられました。聖書のお話とレクレーションを行いました。 次回は5月11日(土)です。 ☆4月18日(木)ドルカス会が行われました。 【日曜学校】 ☆本日、10時からキッズ&ジュニアクラスが行われました。10時15分から親の学び(乳幼児クラス内)が行われました。 【本日の予定】 ☆11時から礼拝を行います。 ☆礼拝後、聖歌隊の練習および青年会を行います。 ☆14時30分から午後礼拝を行います。 【今後の予定】 ☆4月28日(日)13時から管理委員会を行います。 【フェローシップ】 ☆5月2日(木)~4日(土)青年フェローシップキャンプが行われます。 ☆5月6日(月)障がい者フェローシップが行われます。

2024年4月14日 説教テーマ「お心一つで」

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。 マルコ 1章41節 マルコ福音書1章40-45節 №10 ツァラアトは皮膚の末梢神経が侵される感染症の病気です。痛さ、熱さの感覚が失われ、手、顔に障害が起き、変形する場合もあります。かつて日本においても不治の病として恐れられ、隔離政策が設けられたほどです。ユダヤにおいては病気としてというよりも、宗教的な意味合いとして汚れた者と見なされました。人々の前に出なければならないときには「汚れている、汚れている」と叫ばなければなりませんでした(レビ 13:45)。ユダヤの人々はツァラアトを神の罰と見なしてしまい(本来違う)、家族との隔離だけではなく、社会とも隔離しました。イエスのもとに来たツァラアトに冒された人は、イエスのうわさを聞いたのでしょう。彼は雑音交じりの噂話から、神としての権威をイエスに見、「ひざまずいて懇願」したのです。彼は病を癒してほしいと願っているのですが、イエスに告げた言葉は願いではありません。「お心一つで…」これは「もしあなたが望むなら、私をきよくすることができます」という意味です。これは救いにおいて重要な真理で、彼が願うことよりも前に、イエスが彼をきよくすることを望むかどうかというイエスのご意志のほうが重要であることを示しています。彼の求めが先で、それに応じた出来事ではなく、イエスがあわれみをもってきよめてくださるご意志によって起こった出来事なのです。「深くあわれみ」(41)は先行したイエスのご意志そのものです。神の御子としての権威 をもって「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」と宣言されたイエスが、その宣言に基づいて苦しみの中にある者に対してあわれみのご意志を示してくださったのです。ツァラアト患者に触れることは律法によって禁じられているにもかかわらず、イエスは手を伸ばして彼にさわりました。原語では「さわる」の部分が「つかまえて」となっています。何の躊躇もなく、ぎゅっと手を取ってくださったのです。「信じる」ことは、確かに信じる人の主体的な行為です。しかし、この方がその人を救うというあわれむご意志があって、初めて信じるということが成り立つのです。そもそも、私たちは「自分の背きと罪の中に死んでいた者」(エペソ2:1)であって、健全な意志を働かせることさえできない存在です。主のあわれみに感謝を表しましょう。まだイエスを信じておられない方は、聖書が語っている「信じる」ということがどういうことかを考えましょう。

2024年4月14日 週報より報告

【日曜学校】 ☆本日、10時からキッズ&ジュニアクラス、10時15分から乳幼児クラスが行われました。 【本日の予定】 ☆11時から礼拝を行います。 ☆礼拝後に新生児祝福の祈りをささげます。 ☆午後礼拝はありません。 ☆牧師は滝山教会が行う墓前礼拝(入間メモリアルパーク)に出席します。 【今後の予定】 ☆4月16日(火)10時30分からいずみひろばを行います。 ☆4月18日(木)10時30分からドルカス会を行います。 【フェローシップ】 ☆5月2日(木)~4日(土)青年フェローシップキャンプが行われます。 ☆5月6日(月)障がい者フェローシップが行われます。

2024年4月7日 説教テーマ「宣教を共に担う者のために」

イエスは彼らに言われた。「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから。」   マルコ1:38 マルコ福音書1章35-39節 №9  早朝イエスは祈りの時間を持ちました。祈りは朝一番ということを聖書が教えているわけではありません。もっともユダヤの一日の始まりは日没からです。大事なのは神と一対一の時間を持つことです。文脈を大事に見ながら、イエスの祈る姿から、弟子として歩む方向性を確認していきます。その場合ルカ福音書の並行記事は参考になります。比較の一つに、ルカ福音書にはイエスの祈る姿が記されていませんが(ルカ4:42)、マルコ福音書にはあります。マルコには祈る姿から伝えようとしていることがあるということです。第二に、ルカでは群衆がイエスを捜していて、マルコでは弟子たちが後を追っています。この違いは大きな意味を持ちます。イエスが見いだされた後の、イエスが語る相手が変わってくるからです。第三の比較として、ルカではイエスが群衆に向かって「ほかの町々にも…福音を宣べ伝えなければなりません…」と語っています(ルカ4:43)。町に留まって欲しいと願う群衆に対して、ご自分の使命ゆえに、彼らの町に留まることができないことを話しています。それに対してマルコ福音書では、弟子たちに対して「さあ、近くにある別の町や村へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出て来たのだから」と、一緒に福音を伝えようと、重要な宣教のプランを話しています。救われた人は皆イエスの弟子です。弟子に求められることはイエスについて行くことです。その方向性はイエスの宣教の働きです。群衆には「いて欲しい」という別の方向性があります。大きな違いです。 さて、マルコ福音書のこれらの文脈から、イエスが祈られた祈りの中に、同行していく弟子たちのための祈りが含まれていたことは間違いないでしょう。イエスと同行するということは、宣教において神の権威と力が伴うということです。イエスが一緒におられて成り立つ働きが宣教です。群衆の受ける喜びもありましょう。イエスと同じ志を持ち、同行できる喜びとを比較し、群衆であるべきか、弟子であるべきかを考えましょう。

2024年4月7日 週報より報告

【イースターの祝福】 ☆3月31日(日)イースター礼拝が行われました。不義の私たちを義と認めるためにキリストがよみがえられたことを、みことばから確認することが出来ました。復活の信仰に留まり続けましょう。 【遠足】 ☆4月4日(木)ドルカス会主催の遠足が昭和記念公園で行われました。野外に合わせて、山上の説教からみことばが語られました。13名が参加しました。 【日曜学校】 ☆本日、日曜学校の進級式が行われました。新年度の目標は「光の子ども」です。 【本日の予定】 ☆11時から礼拝を行います。 ☆礼拝後に聖歌隊の練習を行います。 ☆14時30分から午後礼拝を行います。 【今後の予定】 ☆4月9日(火)牧師は国内宣教委員会のオンライン会議に出席します。 ☆4月16日(火)10時30分からいずみひろばを行います。 【フェローシップ】 ☆4月1日(月)神学校の入学式が行われました。 ☆5月2日(木)~4日(土)青年フェローシップキャンプが行われます。

2024年3月31日 説教テーマ「なぜキリストは復活したのか?」

主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に 渡され、私たちが義と認められるために、よ みがえられました。 ローマ4:25 「なぜキリストは復活したのか?」という素朴な疑問に、聖書から答えをいただき、自分の信じているところを確かなものにしましょう。もし人が、すべて正しければ天の御国に行くことができます。そのような人の行動や考え(思想)を正しいとする概念を「義」と言います。もちろん聖書は、神の御前においての正しさで す。それは罪が一つもないことを意味します。アブラハムは罪があるのに「義と認められた」(4:3)とあるのはなぜでしょう。彼には罪がないと見なされたのでしょうか?決してそのようなことはありません。彼はむしろ、約束の子を得ることにおいて、自分も妻も死に行くからだであることを認めています。「罪の報酬は死です」(ローマ6:23)の教えからすると、正しい者、罪のない者は死ぬ必要がありません。しかし、アブラハムも他のすべての人も例外なく死ぬべき存在です。聖書によれば義である人間はひとりもいないのです(ローマ3:23)エレミヤも、罪ある人間の心はねじ曲がっていて癒しがたいと述べています。心もその表れの行動も正しさを見出すことは出来ないのです。アブラハムが義とみなされたのは、「…神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」(4:3)からです。彼は死者を生かす神と信じました。約束の子を得る手立てはなく、何よりも彼ら自身を死者と認めるほかない時に、神は死者を生かすことのできるお方と信じたのです。また彼は、無いものを有るものとして召された神とも信じました。約束したと言っても25年経過してもまだ生まれないのですから、無いもの同然です。しかし神には何ら問題ありません。必ず実現できるからです。その根拠は、キリストの復活の事実です。復活の力は私たちが望みえない時にも望みを抱いて信じて良いほどです。主が私たちを義とするとは、生ける望み(私たち自身の復活)を持つこと、永遠のいのちを持つこと、また天の御国に入ることと同義です。私たちは死者で良いのです。良いものが何も 無くて良いのです。復活の祝福はそこにこそ注がれたのです。